観音

紀行文で小説、夢で現実、生で死

「ダッタン ダッタン」

耳をつんざくような轟音が駆け抜ける。すぐそこで大砲でも発射されたかのようである。しかし私は戦場に行ったことはないから本物の大砲の音を聞いたことがない。映画で見たくらいだ。だからきっと大砲ではないのだろう。しかしこれが映画ではないなどと断定できるか。考えてみるとできない。銀幕の登場人物は、監督の支配をすり抜けて、自らを劇中の人物だと疑うことがあるのか。夢の中で夢であると気づいた時のように、映画の中で映画であると気づくこともあるのだろうか。その時、彼のアイデンティティはどうなってしまうのか。それこそ目覚めるのか。Awakeか。今、私は目を覚ました。そうすると私はどの世界から目覚めたのだろうか。無理やり起こされた格好には違いないが、寝起きとしては悪くない。むしろスッキリしていると言っていい。都心部で電車に乗ってしばらくウトウトしていたら郊外や田舎で目が覚めた時のように、ここはどこ、一瞬自分がどこにいるのか、わたしはだれ、もはや自分の存在自体がなんだかあやふやになったようなそんな感覚がしている。子供の時の学校の遠足もそんな感じだったような気がする。バスに乗っておしゃべりに興じていて、気がついたら見知らぬ世界に下ろされる。なんだかふわふわする。新しい世界に浸される。染み渡る。発見する。新しい自分を再構築する。足元まで根っこが張り巡らされている。菌糸が語りかけてくる。何もかもが目新しく見える。いや、私が新しくなったのだ。そして世界を新しくした。古びた積み木も、積み上げればいつだって新鮮だ。廃材建築だ。ブリコラージュだ。古いとは。時間とは。私たちの体もいつかの宇宙の塵だ。場所を変えれば、背景が変わる。神話が変わる。新しいところで積み上げる。他の事物との位置関係が変わる。データが書き変わる。変身する。古木から若芽が芽吹く。発芽。受胎。孵化。変体。合体。細胞分裂。感染。複製。変異。結合。進化。evolve. 見知らぬ情報にさらされる。移動の故の結末。世界は情報の海である。一歩一歩が座標をかき乱す。うながす。うねる。うなる。うるおう。うるう。さて、私は今どこにいるのだろうか。x軸、y軸、z軸はなんとなく定まっているような感じがするが、zの次がどうも曖昧な気がする。それが何かはわからない。閏。あったりなかったり。しかし世界に終わりはあるのか。始まりも知らない。回っている。結局、新生児となって循環する。revolve. だからa軸とでも呼べば良い。戻ってくる。Re: なぜだか昔のことが何も思い出せない。物の定義とか大砲とか古木はわかっているのに、自分のことが何一つわからない。そもそも自分のことが何一つわかっていたことがあろうかと言われれば疑わしい。そういえば大砲のような音を受信したのが確かに私の耳だったのか怪しくなってきた。今も砂の舞うような音が聞こえるが、なんだか腹の方で振動を感知しているような気がする。いや、全身の振動を処理しているのが腹なのか。映画撮影のマイクなのか。ドミノ倒しのように、音波が外界から身体の分子を次々と揺らしていって、それが腹を目指すのか。私の身体、全身も捉え難い様子がある。どこが境界だかわからない。先ほど、外界と身体を言葉では分けてみたが、それはあくまで私の概念の中でそうしたのだ。説明のためにそう言ってみたに過ぎないが、実感がわかない。そういう抽象的な思考ははっきりしているのだ。教会のボーダーはあってないようなものだ。問題は教区か。思想は物理的な境では止められない。だから教区をも超えるはずだ。経典を燃やしても意味はない。本は焼けない。私は他の事物との位置関係にしか過ぎない。そういうことだろうか。a軸ということか。a軸は動き続けているのか。別に基準線が固定されなくてはならない道理もない。決め事は幻想だ。地球は回っているのだから、xもyもzも夢だ。決定の土台は揺らいでいるのだ。もともとなかったのだから、書き換えるのだ。黙っていても、書き変わるのだ。自転してしまうのだ。所詮は他の事物との位置関係だ。座標だ。動き回る座標軸だ。昔の記憶は何一つ思い出せないが、以前より生き生きしているような気はしている。そういう座標にいるのか。頭もスッキリしている。一食抜いてみた時のようだ。腹も軽いから音をよく感じる。鳴りがいい。そういえば映像も受信しているようだ。これも腹がやっているのだろうか。覚えているようなやり方とは違うような気がするが、どうもよく見えているような気がする。動き回っていても座標は座標だ。まずは立ち位置を把握しておくべきだろう。目の前に見えるのは、あれは水溜りだな。潮汐を持っているから海だろう。砂のサラサラとした音が、音の粒が、互いの粒子が擦れ合う軋みが、一個一個の砂粒となって、降り積もる。なるほど音が物質を作るのか。音符と休符を五線譜で結合させるということか。それが化学式か。力学か。ならばあの小気味よい細波も音なのだろう。それが現成したのだ。いい音楽だ。全てが音なら、それを腹で受信さえすれば、全方向、自由自在に見られるのだ。眼耳鼻舌心意をもって音を見る。観自在。私は観自在菩薩か。たれもが観自在菩薩なのか。観音。見る物全てがなんと美しいのだろう。醜いものがあるから美しいものがあるのではない。美醜がないから美しいものがあるのだ。美しいものしかないのだ。別に醜くくてもいいのだ。そこに見にくさはないのだ。こんなに海は青かっただろうか。私は青を覚えているが、覚えている以上に青いのだ。青がより一層青い。私は青というものを知らなかったのだ。本当の青を今知った。嬉しいなあ。絵画を見るのが楽しくなりそうだ。ゴッホやバスキアの青が目に浮かんでくる。左の方にはるかに見える空の青さもまた格別である。とても静かな音がする。高度を稼ぐほどに深く、限りない黒さに飲み込まれていく。RGBの数値が、0,0,0へと遷移する最後の青の、夢見心地の残響が冷たい岩壁に吸い込まれていくようなフェイドアウトが腹をくすぐる。なんと音はよく見えるのだろう。誰もブラインド・ウィリー・マクテルのようにブルーズを歌えやしないとディランは歌ったが、そうに違いなかったのだ。彼は音を見ていたのだ。腹で見ていたのだ。肚。月と土を、天と地を音を通じて繋ぐ。そして彼のブルーズは映画だったのだ。天地創造の神話だったのだ。私の映画は右に海、左に空。なんだかおかしい。覚えている世界と少し違う。海は眼下、空は頭上にあるものではないのだろうか。周囲の音を仔細に聞いてみる。上方には海岸線が聞こえる。背後には断崖絶壁が、足元の向こうでは河口が今まさに海へと注ごうとしている音が鳴っている。肉体の音にも耳をすませてみる。なるほど、よく見える。よく聞こえる。思っていた見た目とは随分違う。馬のような生き物が横たわっている。これが私なのか。ゴッホとかディランとかを思い出すものだから、私は人だと思っていた。しかしそんなことはどうでも良い。結局は他の事物との位置関係に過ぎない。私を馬にしたのは位置関係だ。腸内細菌だ。蠢きだ。動き回る座標軸だ。観自在菩薩に馬も人も犬もないのだ。犬に仏性ありや。無。ム。夢。どうでもいいのだ。よく見ると私は馬ではなくて犬だ。口元が後退して歯が剥き出しになっているから馬に見えたのだ。剥き出しに鳴っているのだ。音が。なんでそうなっているかというと、どうも腐っているからだ。私は死んでいるのだ。海岸で死んだ犬なのだ。右に海、左に空を見て、砂浜に横たわっているのだ。a軸が少し見えてきた。なんと心地いいのだろうか。海と空の境の青もまた格別である。海が空の青を映して、雲も映して。どこが境かわからない。わからなくてもいい。入れ替わっていてもいい。そんな青が格別なのだ。

「ダッタン ダッタン」

東京発の常磐線に乗り込んだある日の早い午前中の2012年の5月上旬のゴールデンウィーク、僕はシートに座って小さなバックパックになんとなく寄りかかるような感じにして車窓の外の茫茫とした関東平野を眺めながら福島目指して北に向かっていた。近くの景色は瞬く間に通り過ぎていき、遠くの景色はゆっくりと流れていく。遠くの遠くは本当にゆっくりである。建物に囲まれるか地下を走っている都心部の電車移動では見られないこのゆっくりさが、旅情を掻き立てる。常磐線に乗れば、東京から仙台まで行ける。ちょっと思い立てば、日常など簡単に脱出できるのだ。しかし多くの人にとって、脱出はそう簡単ではないからこそ日常と呼ぶのだろう。正気を保つには習慣に浸っている必要があるのはよくわかる。習慣は麻薬だとプルーストは言った。麻薬であるうちはむしろ良い。しかし習慣には変化が必要だ。むしろ変化があるものだ。なぜなら習慣は鍛錬であり向上と無縁ではないからだ。先住民の暮らしだ。足元を知り、知り尽くす。見知らぬ植物は匂いを嗅いでみる。食べてみる。あれこれ試してみる。それが麻薬の効きに関わっている。変化のない習慣は鎮静剤だ。これでは正気じゃいられない。ひっくり返ってしまう。言葉もひっくり返って慣習になってしまう。がんじがらめだ。その時、人は脱出を必要とする。川の向こうへ行くのだ。彼岸じゃ。ヒガンジャ。

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