下らない生き方
狂人のための自己啓発本
序文
世界有数のパウダースノーを誇る北海道ニセコで働いていた頃、僕は走って通勤していた。きっと夏の間だけの話だろうと思われるかもしれないが、冬も走って仕事に行っていた。むしろ冬にラン通勤を始めた。ただストイックなばかりに聞こえるかもしれないが、パウダースノーをスキーやスノーボードのためだけのものにしては勿体無い。そう思えるくらい、パウダーを撒き散らしながら走るのだって気持ちがいい。まあ滑る方が気持ちいいとは思うけれど。
ある日、繁忙期で仕事が遅くなった時に、ヘルプで来てくれていた人が車で家まで送ってくれるという話になったのだが、僕は至極当然のように丁重に断りを入れた。「いえ、走るので大丈夫ですよ。ありがとうございます」と。その時に頂戴したのが次の言葉だ。
「そんなの時間の無駄でしょ」
なるほど、時間の無駄なのか。僕としては片道わずか2㎞弱の距離でもあったし、移動の時間でエクササイズできる上に交通費が浮いてしまうのだから、全然無駄な要素を感じることができなかったのだが。むしろ世間がここぞとばかりに要求する「効率」を実現している。走る前は面倒だと思うことも多いが、走ってしまえば気持ちいいものでもある。ラン通勤は走らないとどうにもならない状況に自分を置けるのがいい。しかしながら、一般論としては確かに時間の無駄なのかもしれない。ラン通勤自体が少数派だと言うのに、雪上ランだったから。
その後も似たような意見を授けていただいている。
「走るなんて下らない」
確かにそう思えなくもない。時間ばっかり浪費して何も生み出さない。別に新しい道具を揃えなくても出来るから経済も回らない。最新のランニングウェアとシューズで身を包んでも、やっぱり服と靴くらいだから大して経済も回らない。経済を回さずに自分たちが皇居の周りを回っているばかり。それで気分も良くなってしまうから、お金も使わずに満足するし、健康になるから、医療利権にも貢献しない。確かに下らない。
しかしそれは誰にとって下らないかという話でしょう?一般的で大衆的な価値観に相入れない事柄を下らないと呼ぶのであれば、僕は喜んで下らない生き方を選ぶ。「下らなくないもの」の集合とその要請がこれまでの社会を築いて来たのだとしたら、持続可能性が叫ばれ始めている昨今、すなわち今までの社会を持続不可能であると認めた以上、その根本にメスを入れる必要があるように思う。そのアンサーとしての下らない生き方を僕はここに提唱してみようと思うのだ。
僕たちが暮らすのは高血圧と診断されて、降圧剤を飲んでいるような社会だ。薬で一時的に血圧は下がるが、病気の根元はそのままだから、その服用は死ぬまで続く。そんな社会。体質改善しましょうということにならない。そもそも血圧が高いことって問題なのか?という見解もあるが、議論も深まらない。そんなことがぬるっと続く利権構造。今や70歳以上の降圧剤服用者は半数に達するとか。そんな国、日本。
_下らないの語源を紐解くと
ここで「下らない」の語源を掘り下げてみよう。諸説あるが、かつて酒の本場であった灘や伏見などの、いわゆる上方から関東に送られて来たものが「下り酒」と呼ばれており、一方の関東の酒ははるばる下って来ないために、「下らぬ酒」と呼ばれていたのだそうだ。
文化の中心地である上方から全国に広がるもの。今で言うところの流行り物を「下りもの」と呼ぶのなら、その外にあった関東を含めた地方で出回る「下らないもの」は言い換えれば、メインストリームの外でローカルたちに大切に愛されて来たものとも言える。
大阪スタイルのお好み焼きが全国に広まった「お好み焼き」であるからといって、広島スタイルの「広島風お好み焼き」がそれに劣ると言うことにはならない。下らないものを流行らないものとした時、広島風は確かに大阪風と違って「下らなかった」のかもしれないが、ご当地広島での愛され方とその確固たる地位は比類し難い。
県境をまたぐまで目にもつかなかったおたふくソースののぼりが、沿道のあちらこちらにたなびいているのが広島だ。どんな小さな街にもお好み焼き屋は存在する。もはや「下らない」からこそ、地元民に深く愛されているように僕は思う。全国的人気のジャイアンツへの東京民の想いなど、広島カープへの広島民のそれと比べてしまっては申し訳ないほどだ。
下らないもの。全国的な広がりは見せないものの、その地方において愛されるものを作ること。そこでしか体験できないものを確立すること。地方都市の存続はその独自性にかかっていると僕は思う。地方の発展のモデルを東京に求めてしまえば、出来上がるのはその劣化版でしかないし、事実、これまでの地方の衰退の原因の一つがここにあるように感じてもいる。
_下らなさとイノベーション
オースラリアのバイロンベイが、人口数千人規模ながら年間で100万人にも達する観光客を呼び込んでいる理由がそこにある。高い建物も、ファストフード店もなければ、信号機もない、オーガニックフードとサーフィンとヒッピーの町。もはや都市の文化の下らない地とは、なんでも手に入ると思っていた都市では手に入らないものや体験を提供できるスペシャルな地であると言うことだ。
何事もメインストリームに乗ればその流れと一つになってしまうが、そこから一歩離れれば、決して大きくはなくても確固たる一つの流れを形成することができる。それがいつしかメインストリームを飲み込む流れにだってなるかもしれない。
無線電信を発明したイタリアのマルコーニが電波によって通信すると周囲に豪語した時、友人たちによって精神病院に連れていかれたと言う話があるが、その当時は誰しもが馬鹿にするような革新的な発想が、今ではなくてはならない当たり前の技術として世界中に広がっている。
イノベーションとは社会が下らないと呼ぶようなアイデアから沸き立つものかもしれない。SF小説から切り出したような最新のテクノロジーだって、シリコンバレーをはじめとするスタンダードを外れた天才的オタクたちによって現実のものとなっている。メインストリームから外れた、誰もが思いもよらなかった、いわば下らない発想だったからこそ、社会に大きなインパクトを与えることができたのだ。強豪がひしめき合うメインストリームに対する、極楽浄土なブルーオーシャンといったところだろうか。
_下らなさという幸福の追求
下らない生き方がイノベーションに繋がり得るとはいえ、別にそんなことを念頭に入れる必要はない。むしろ探求すべきは僕たちの生き方が自身の幸せに寄与しているかどうかであって、それが社会的成功に導くかどうかは副産物みたいなものでいいではないか。それに幸福になる方法を示すことだって、これ以上ない成功でもある。
小規模で手作業の無農薬栽培の畑なんかをしていると、大規模な農業をしている人にお遊びだと揶揄されることがあるが、それが楽しくて幸せなんだから良いのである。規模を拡大して事業を立ち上げてお金を稼げるようになったとしても、楽しさや幸福を手放すことになるとしたら、それは成功と呼んで良いものなのか僕には疑問だ。
下らなくはないが不幸な人生より、下らない幸福を僕は選ぶ。
幸せに生きるヒントはこの下らなさにあるのではないだろうか。1年で2万も3万もの人が自殺している現状がこの国にはある。遺書がなければ自殺と認定されないから、本当はもっと多くの人が自死を選んでいるのだろう。東日本大震災の死者と行方不明者を足しても2万人に達しないことと照らし合わせると、いかに異常な数字であるかがわかる。死に至る人が氷山の一角だとすれば、死ぬまではいかなくても、死ぬほど苦しんでいる人が海面下に驚くほど存在しているはずだ。
他者の、社会の、そして自分自身の期待に応えようと、下らなくない生き方を頑張りすぎてしまっていることが一つの要因のように僕には思える。親をがっかりさせたくない、学校でうまくやらなきゃ、会社で結果を残さなくちゃ。そんな優等生な内なる声に耐えられなくなった末の悲劇が自殺なのかもしれない。
_下らない生き方のススメ
別に誰の期待になんて応えなくてもいいし、馬鹿にされるようなことをしたっていい。どうせそんな期待も嘲りも所詮メインストリームの要求だと分かれば、そこから離れてしまえば大した意味もなさない。ドロップアウト。いや、ドロップインだ。僕たちが僕たちのままで輝けるところに飛び込んでいくということだ。どこにだって小さなストリーム(流れ)はあるのだし、新たなストリームを作ってその守護者となったっていい。
そんな「下らない生き方」の実践が、社会の多様性を促し、画一的でない、それぞれの幸福というものに導けるのではないかと僕は思っている。
下らない生き方とは具体的にどんなものだろう。
メインストリームから外れる
流行りに乗らない
自身の価値観を大切にする
誰もやっていないことをする
他者の評価を気にしない
収入や名声より幸福を追求する
効率より楽しさと学び
別に意味がなくたっていい
他にも色々あるだろう。ただの天邪鬼だと言われればそれまでだが、別に良い。
見方によっては自己中心的と捉えられるのかもしれないが、僕はそうは思わない。個人主義とは自らの個人としての権利を大切にすることであり、他者のそれをも尊重し擁護することだと思っている。社会が押し付けてくる「普通」から解放された下らない生き方を実践する者たちが、その恐るべき真理の皮をかぶった「普通」を振りかざして他者を抑制することはないのだから。そう、下らない生き方とは抑制と無縁なのだ。
僕はどこに行っても「変わった人」と呼ばれてきた。変わった人を求めて、北は北海道、南は沖縄、上は北アルプスの山小屋で働いて、国内はもちろんインドなども旅してきたが、そこでも僕は「変わった人」と呼ばれ続けてきた。
僕は自分のことを変わった人だとは一度も思ったことはないどころか、むしろ「普通」だと思っている。社会が押し付ける普通ではなく、僕が僕にとっての普通だ。僕はいつも僕としてニュートラルであるつもりなのだが、きっとそれが変わっていると呼ばれる所以かもしれない。すると、変わった人とは素直な自分でいる人のことをさすのかもしれない。そう、抑制とは無縁だ。
ということは、変わってない人の中には、自らを抑え込んで、素直な自分でいられない人がいる可能性がある。きっとそれは世界の幸福度数で日本が50位台に甘んじていることや、毎年多くの人が自死を選んでいることが如実に語っているように思えてならない。
変わっていていいし、白い目で見られてもいい。自分の中の内なる狂人を外に出してみようではないか。そんな人の為に、僕はこの本を書いた。これは抑圧された狂人が狂人であれるための自己啓発本だ。狂っていていいのだと言うことを、塩を自給自足し、トイレの汚物を畑に還し、小屋を人力のみで建て、挙げ句の果てには轢かれた動物を食べる、僕の狂った生活の描写を通して伝えたいと思ったのだ。
この本が届くべく人に届き、自らが自らを閉じ込めている見えない檻から抜け出すための、後押しができるのなら、こんなに嬉しいことはない。
「諸君狂いたまえ」 吉田松陰