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死にたい人に送る無料のメールマガジンは、以下のフォームより購読できます。何故メルマガを発行することにしたのか。まだの方は、以下の序文を是非お読みください。

#死にたい人に送る
無料のメールマガジン

毎週金曜日17時頃発行。テーマは「生き抜くこと」、サバイバル、またの名を衣食住、すなわち経済です。

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死にたい人に送る無料のメールマガジン 序文

死にたいと思っている人にメールマガジンを発行することにしました。無料です。無料だから有料より良いものになる気がします。

この序文を読まれているあなたは、死にたいと思っているからここに辿りついたのでしょう。もしかしたら死にたいと思っている人を心配して、その解決法を探っている心優しい人かもしれません。もちろんメルマガは前者の死にたいあなた向けです。ただ、後者のあなたの為にもなるかもしれません。何しろ、後者のあなただって死にたいと思ったことはあるかもしれませんし、今後死にたいと思うこともあるかもしれません。僕だって死にたいと思ったことがあります。ですからこのメルマガは誰にでも購読いただけます。

まず最初に明確にしておくことがあります。それは、

・死にたいと思うのはおかしなことではありません。
・むしろ死にたくなるような世の中です。
・だからあなたは正常です。
・むしろ正直で心優しいのです。
・世界には正直者が必要です。
・だから僕はあなたを必要としています。

さて、死にたいと思っているあなた。そんなあなたを僕は止めません。どうぞ。やりたいと思っていることがあるのは素晴らしいことです。やりたいことは是非実行に移すべきだと思います。死にたいのなら、死にましょう。やりたいこと、やろうとしていることを否定されるのって嫌じゃないですか。それで死にたくなってるのかもしれませんよ。僕も否定したくないです。

かと言って強制はしません。死にたいのなら早く死ねとは言いません。勉強しようとしていたところで勉強しなさいと言われるとやる気なくしますからね。信頼されてないのだと捉えてしまう。それも自分を否定された感じがあるからでしょうか。否定っていうものはなかなか悪さをするんです。否定が飛び交う環境にいると疲れます。言われる方も言う方も、聞いている方だって疲れます。それが仮に正しかったとしても、疲れます。否定を口にする人が正義を振りかざしている感じも疲れます。あなたの人格を否定しているのではなくて、客観的な批判、批評であると言いつつ、人格を否定する気が少なからずあるのもあながち嘘じゃない感じの人もいます。たくさんいると感じます。

そして否定は否定を呼びます。他者の否定は、自己肯定を産むのでしょう、楽しかったりするので、やめられなくなってしまいます。相手を下げれば、自分が上がります。上司や政治などへの愚痴は大いに盛り上がります。麻薬です。楽しいですが、やはり疲れもするのです。だからまた楽しくなるために麻薬が必要です。誰かを否定してコテンパンにしないといけません。しかし、仮にあなたが他者の否定によって肯定感を感じていても、否定に飲まれた社会は容赦無くあなたを否定してくるでしょう。疲弊したあなたを。死にたくもなりますよね。

だから僕は肯定したいと思っています。もはや肯定すらもなくなって、滞り無く、流れるままに、そのまま、もうすでに起きている、みたいな方がいいですね。許可を求めるのはちょっとした自己否定かもしれません。自分の決断を自己承認できない。自信を持って行動しましょう。他者の判断など求めずに、自らを認めるんです。肯定も否定もないところ。そんなところの自由。死にたいんですか。いいじゃないですか。死にましょう。やりたいことはなんでもやるべきです。やりましょう。人に迷惑かけさえしなければ、なんだっていいじゃないですか。法律だってどうでもいいです。誰にも迷惑かけないのだから、社会に介入される筋合いなどありません。その場合間違っているのはあなたではなく、法律の方です。

別にあなた一人が死んだところで、誰もそんなに困りません。悲しむ人はいるでしょう。家族や友人。職場の方もスタッフが一人減って苦労するかもしれません。でも大丈夫です。みんなそれなりに乗り越えます。なんとかなります。それよりも、自分のことを脇に置いて、他者の心配ばかりしている心優しいあなたが、やりたいことを実行できず、その果てに死にたくなっている方が心配です。死にたいのに、周りに気を遣って死ねず、結果死にたくなっている。困っているのは誰かではなく、あなたの方ではないでしょうか。時には自分のやりたいことにも正直になるべきです。他人の為にという時、俯瞰的に見れば、あなた自身もその他人の中の一人です。あなたを疎かにしては、他人の為に尽くすこともできません。

ここまで読んで死んでいないあなた。何かおかしくありませんか。死にたい人に死の自由を説いているというのに、あなたはまだ読んでいます。本当に死にたいのですか。死にたくありませんね。決めつけられるのは嫌ですよね。やめましょう。でも、死にたかったら、最初からこの文章を読むまでもなく、発見するまでもなく、死んでいるかもしれません。ならば最初から死にたくはないのかもしれません。

死にたいのだったら、お金が必要だからと嫌な仕事したり、いちいち嫌いな人と関わったり、生き延びる方法を考えたり、死にたいと思う卑しい気持ちを治すべく病院に行ったりする必要はないはずです。全てをほっぽり出して、僕の偉そうな文章を読まないで、死んでしまった方が良いはずです。とすると、あなたは死にたいのではなくて、生きたいのかもしれませんね。生きたいのだけど、世界が生きづらい。苦しい。生きたいけれど、苦しみたくはない。死んだ方が楽かもしれない。それ以外の方法が思いつかない。いろいろ試したけれど、何もやっても苦しい世の中だったから。

死にたくはないけど、死を選択せざるを得ない。本当は生きたいのだ。そういうことなら、僕はもちろん生きたいあなたを肯定します。死んでほしくありません。死にたくなるような世の中です。この世は。わかります。死にたいあなたは正常です。真っ当です。正直で心優しい人に違いありません。否定に溢れた狂った世の中です。暴力に訴える人もいます。狂気が暴力を呼ぶのでしょうか。彼らは力で自らを肯定します。でもあなたはそれができない。心優しいあなたは人を傷つけることはできない。すると自己解決としての自死という選択が見えてきてしまう。外でなくて内に向く。至極、真っ当だと思います。

正直者はいつだって馬鹿を見る世の中です。僕は学校で傘を盗まれて、自転車で45分の道のりをびしょ濡れになって帰ったことがあります。寒かった。傘を盗まれたのなら、他の傘を盗めば良かったのかもしれません。でもそうしたら傘を盗めないどこかの正直者がびしょ濡れになります。傘は人数分以上あったかもしれませんが、誰かが不正の元で濡れるなら、僕自身が濡れる方を選んだわけです。ムカつきはしましたが、良心の呵責に苛まれるよりはマシです。話が脱線しました。社会には正直者が必要です。正直者が馬鹿を見ないでいいくらい、正直者が必要です。だから正直なあなたが必要なのです。

もちろん僕は誰かが死を選んだとしても全力で肯定します。誰かが自死したり、または若くして病気や事故、事件などで亡くなったりすると、当たり前に世間は悲しいとか言うじゃないですか。僕はそこで悲しむのはなんかしっくりこないんですね。弔いとか、哀悼とか、追悼とか、みんな悲しむって意味が含まれてるようですが、その人の死を悲しむことは、なんだかその人の人生を否定してしまうような気がするんです。もっと良い結末があるはずだったのに。みたいな。

ちょっと待ってください。その人はその人なりの紆余曲折な人生を全力で生きたんじゃないですか。不本意だったこともあるでしょうが、うまくいくことばかりではないのが人生です。幼児期に亡くなってしまう子たちだってそうです。こちらの尺度で短い命を嘆いても、彼らにとっては一つの一生です。全人生です。それぞれの一生涯を燃やし尽くしたのなら、やはりそれは素晴らしい生き様だと僕は思います。だから僕は、誰かが死んだ時、一生を終えたんだなあ凄いなあと思います。悲しむより、称えるべきことだと思うんですね。この世をやり切るのは凄いことですよ。それが唐突な死であったとしても。時間の長短は関係ありません。だからあなたが死んでも僕は悲しみません。尊敬の念を持って送り出しましょう。

僕の大好きな詩にアレン・ギンズバーグのHowlがあります。ビート文学の幕開けを宣言したような詩です。能書きは抜きにして、その最初の一節を見てみましょう。僕の拙い日本語訳をお許しください。

「僕は見た。同世代の最高の精神たちが狂気によって破壊されるのを。飢えて、ヒステリックで、裸で・・・」

まあ、こんなような想いを抱いているわけです。狂ったような世の中です。死にたくなるのは真っ当です。そんな真っ当で正直な人たちが、あなたが、狂気によって破壊され、死を選ばざるをえないのだとしたら、なんと救いのない世の中でしょう。死ぬこと自体は悲しみません。有終はいつだって美しいのです。しかし世界の方に美しさが足りない。

最高の精神たちは狂気によって破壊されてしまうんです。だから最高の精神なんです。世間から見るとその狂気は正気と呼ばれるものかもしれません。獣辺に王と書いて狂う。百獣の王。狂ってるのはどっちですか。野性に狂いなどありません。最高の精神たちは世間の正気によって破壊されるのです。普通とか、常識とか、当たり前とか、そんなようなものが、頭ひとつ飛び出た釘を打ち込みます。破壊します。我こそが正気と思っている、それは空気です。空気を読めと迫ります。世間には最高の精神の考えることなんて理解できません。空気への理解が違うんです。少なくとも空気は読むものでは無く、腹の底で、丹田で、深く吸い込むものです。頭じゃなくて、肚で感じるのです。

もったいない。物じゃあるまいし、失礼かもしれませんが、そんなことは承知でこう言いましょう。あなたが死ぬのはもったいない。あなたは自分のことを、誰の役にも立たず、社会のためにもならず、友達もなく、才能もなく、ただ資源を食い潰して、地球上の癌細胞たる憎きホモサピエンスの一人となっているのだから、とっとといなくなった方がいいと考えるかもしれません。しかし僕はそうは思いません。おっと、なんだか否定っぽいかもしれませんがそうではありませんよ。むしろ僕が信用できるのは、死にたいと思ってしまうような人くらいです。だから僕はあなたを信用します。心優しい、正直なあなたを信用します。生と死のエッジを綱渡りして、命に真っ向から対峙したあなたを。

さあ、あなた正常です。正直者なんです。だから大丈夫です。生きましょう。世間という娑婆に立ち向かおう。と言ってそのまま元の世界に舞い戻れば、正直なあなたはまたしても苦しむでしょう。凝り固まったシステムの中でそれなりにうまくやれるのは、自らを欺ける人だけです。正直なあなたには向いていません。

多くの人が人間関係に苦労しているように見受けられます。当たり前な気がします。正直でない者たちの社会における人間関係です。そんな人間の渦の中に入っていくのは大変に違いありません。僕は人と会うのが苦手です。相手にとってはいい人に見られるかもしれませんが、それは僕が気を使う人だからでしょう。気が利くんです。よく働きますし。ブラック労働な環境にも果敢に立ち向かいます。そうです、頑張りすぎます。他者のために頑張りすぎるのです。気が利くのと気にし過ぎはコインの裏表です。むしろ嫌われたくないから頑張っているのかもしれません。ビビリです。追い立てられるように働きます。そして疲弊します。潰れます。やる気のやの字もなくなります。最初はあんなに気合が入っていたのに。仕事をやめます。ちゃんと正規の方法でやめます。僕は馬鹿正直なんです。むしろビビリです。最後の最後まで嫌われるのを恐れます。上司をぶん殴って啖呵を切って辞めるとか憧れますが、絶対にできません。当然惜しまれます。いつでも戻ってきていいよと言われます。社交辞令であしらいます。当然戻りません。ボロボロになるまでやった所に、戻ろうとは思えません。

考えてみると2年以上同じ仕事をしたことがありません。僕は躁鬱の気があるのは自覚しています。統合失調症の気もあります。子供の頃のひどかった不安症は今も少し後を引いているのも理解しています。手がズタズタになるまで手を洗って、さらに洗い続ける潔癖症の小学生でした。高校生の時は毎日腹痛に悩まされました。カート・コバーンもそうだったようなので、少し救われた気分になりましたが、腹痛は腹痛のままでした。おまけにガスがよく出ました。恥ずかしがってガスとか言ってますが、おならですね。多感な高校生には悲劇です。匂いはなかったのですが、そう信じたかっただけかもしれませんが、確かに匂いがなかったと思うのは、授業中に何度も出るからで、もし臭かったら周囲が黙ってないと思いますから、だからと言って、今回ばかりは臭いかもとか、音が鳴ってしまうかもとか、ビクビクしながら授業を受けていました。よくそれで休むことなく学校に通ったものと思います。プライドが高かったんですね。それだけの話です。むしろビビリだからかもしれません。一度行かなくなったら、何か悪口を言われてるかもしれないと、ネガティブな想像をしてしまう可能性が自分にあるのを理解していたからかもしれません。ビビリですね。死にたくても、ビビリなんで死ねません。だから聖書を読み始め、神に祈ってみましたが、何にもなりませんでしたので、今度は悪魔崇拝をやってみましたが、同じく何にもなりませんでした。都合よく神仏に手を合わせるような奴に、助ける神も悪魔もありません。この頃に精神病院に診てもらったら、しっかり病名をもらって、障害者年金を受給できていたかもしれません。もったいない。でも当時は病院に行くなんてプライドが許さなかったでしょうし、そもそも自分のことを頭おかしいとなんて思ってませんでした。普通だと思ってました。俺こそが普通だ、正気だ、と思ってました。その後、行く所、行く所で、変わっていると言われ続けて、少しづつ自覚して、狂気に気がつき、自己分析してきたという感じでしょうか。人は狂気を押し付けられて破壊されるのか。精神病患者に認定されて薬漬けになるよりは、自己診断の方がマシだとは思ってます。誰が言ったか、まともな人間は精神病等にしかいない的なことは、なんとなく僕を支えてきたような気がします。それと、ケルアックの本に出会って、自分みたいな人がいると思って、少し安心したのを覚えてます。僕が仏教に出会ったのはケルアックのお陰なんです。近年ではどのような腸内細菌を持っているかが、精神にまで影響を与えるとわかってきています。脳と腸は迷走神経で密接に繋がっています。僕は腸に問題があったのでしょう。それがおならを呼び、僕を狂わしていたと。

なんの話をしていたんでしょうね。そうです、人と会うと気を使いすぎます。だからあまり会わない方がいいんですね。僕は。週一とかで十分です。精一杯です。後は人によります。僕にもパートナーはいます。気を使わないと言ったら嘘になりますが、気兼ねがないというか、楽なのです。楽というのは大事なことです。でも、共同作業は自分のタイミングを失したり、相手に合わせたり、気を使ったりしすぎるので、基本しません。分担、分業でやってます。相手の仕事に互いにリスペクトです。任せ合いです。それが楽でいいです。

一緒にいて楽な人以外は極力離れた方がいいかもしれません。僕にとって楽な人は両手で数えられるくらいしかいません。片手でも数えられるかも。否定的な人からは少しずつ距離を取りましょう。友達だからとか、家族だからとかも関係ありません。なんなら逃げましょう。逃げるが勝ち。君子危うきに近づかず。ブッダもダンマパダでこう言っています。「愚か者とともに歩む者は、長い間、憂い悲しむ。 愚か者たちとつるむのは、仇敵と一緒にいるように苦しい。智慧ある人とともにいることは、親せきとともにいるような安らぎである。」(原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟 アルボムッレ・スマナサーラ著)。愚か者といると、愚か者の世界に引きずり込まれます。愚か者の世界標準で生きることになります。愚か者の空気(!)。智恵あるものが親戚です。血縁なんて大したことではありません。親は子を選べないように、子も親を選べません。お互い様です。智恵さえあれば、血縁なんぞより強固な結びつきを生むものです。血より智です。

僕の場合はこのように人とあまり会わなくすることで、だいぶ心の平静を保てるようになっています。たまに会って頑張って疲れても、会わない日の方が圧倒的に多いのでそこで回復させる余地が多分にあります。耐えられる程度の反動に抑えるのです。2020年は新型コロナウイルスによって人々の生活が一変した年となりました。しかし僕の生活は何一つ変わりませんでした。もともと人気のないところに住んでいる上、人と会わない方が心地いいのですから。むしろ社会がそんな生活を後押ししてくれてありがたいくらいです。僕みたいな人も多いんじゃないでしょうか。

一方で、人恋しくてストレスが溜まってしまう人もいるようです。いろんな人がいますからね。でもそれって本当なのかと疑わしくもあります。だってみんな人間関係で苦労していませんか。人と会いすぎかもしれませんよ。人と会いすぎると感染症の思う壺ですよ。SNSで人と関わりすぎかもしれませんよ。僕はぶっちゃけ都会の孤独みたいのが好きです。渋谷のど真ん中とかの、無数の人の中で透明になれるような感じとか安心します。田舎に暮らしていると、その辺にいる人全員知り合い、とは行かなくても、知り合いの知り合いみたいにはなってくるので疲れます。そういう意味では、人に会うということは、人と関わるということでしょう。

でも僕はこうやってメルマガを通して人と関わることをしようとしています。人に会うこと、関わることが苦手なんだと話していましたが、こちらのタイミングで関わる分にはあまり疲れないんですよね。あとは自分勝手にできること。前述の通り、僕は共同作業が得意ではないのです。それは一人でやるより頑張り過ぎてしまうが故です。

ネット上のやりとりだとリアルに会う必要はないです。かと言ってメルマガはSNSのように、スクリーンの向こう側のタイミングに歩調を合わせる必要もありません。タイムラインに新しい情報があるかも、みたいなことはありません。こちらから送る。そちらに届く。決まった日に。情報はドラッグなのです。人は自らに関わる情報を余すところなく得たいと思うのです。タイムラインをスクロールし続けるのです。どこにいけば果実が熟れていて、どこにいけばライオンと遭遇する可能性があるのか知ることは、命に関わるからです。野性の話です。しかしSNSは別に見なくても死にません。ただし本能的焦燥感だけはくすぐってきます。24時間で消えるストーリーなどはまさにでしょう。だいたい本当に友達だったらSNSで繋がっている必要はありません。お酒の席とかもそうでしょう。そういったものがなくなったら関係が崩れるようでは友達と呼べません。友達の近況投稿を見ないようにすると、あいつはどうしているかな、となって会いたくなったりするものです。たまには僕でも会いたくなるんですよ。たまに、少し、くらいは。

SNSなんかやめちゃいましょう。時間もたくさん手に入ります。時間は平等です。誰にとっても1日24時間です。そんな時間が手に入っちゃいます。白状しますが、そう言いつつも僕はこの文章を書いている時点でTwitterをたまに見ます。すいません。でも見ている人を限定しています。坂口恭平さんとモーリーロバートソンさんです。坂口さんは電話番号を公開して死にたい人からの電話を受け付けていることでも知られています。このメルマガも坂口さんにインスピレーションを受けました。でもなぜ僕はメルマガというメディアを選んだのかはほとんど語ってませんね。後述します。で、なぜ、この二人の投稿は見ているかというと、それくらいなら時間もあまりとらず、疲れもしないというのはありますが、僕にとっては彼らの言葉はアートなんですね。ビートなアート。それを、芸術を、見に行ってます。それと、過去のドラッグ歴をツイートした数少ない著名人です。正直者です。僕は正直者が好きなんです。なんとか脱線から戻ってきました。

野性な話をしてみましょう。狩猟採集時代において、関わる人の人数というのは今に比べてかなり少なかっただろうことは想像に難くありません。拠点を随時変えて食料目指して移動することもあり、部族の外の人間とは一時的な関係だったと想像されます。すると部族の人間とは腐れ縁みたいになりそうです。しかし、そこから逃げるという選択肢もなきにしもあらずだったんじゃないかと思います。死ぬ可能性はあります。でも縁は切れる。日本だったら山に逃げる。山窩になる。天狗になる。サバイバルにはもともと長けている。逃げるが勝ち。友達100人できるかなと歌わされた時、子供ながらにそんなにいらないと思ったものです。そこでできた友達100人とは繋がり続けるんでしょうか。あの歌は失望するために歌うのでしょうか。現実的にはその中に一人でも友達と呼べる人がいれば宝です。実際はもっと少ないんじゃないでしょうか。いない、という人もいることでしょう。僕にもお互いに友達と思っている人が実際にいるのか、考えてみるとよくわかりません。

でもブッダのような高名な方が、愚か者と付き合うなと言ってくれているのですから、なんたる救いではありませんか。きれいな部屋に物が一つ転がるととても目立ちますが、散らかった部屋に何かを投げ込んでも気がつきません。汚いものを投げ込んでも気が付かないかもしれません。人間関係もそのように捉えられるかもしれません。雑多な人間関係を持ちすぎて、愚か者の存在に気がつかない。ならば一度、人との関わりを厳選してみる価値はあるでしょう。そしてきれいな部屋に智恵あるものを迎え入れましょう。そうやって再び人間関係が膨らむと、また愚かさが隠れこむかもしれませんので、人付き合いは程々がいいのです。風とおりがよく、ジメジメせず、カビ臭くならないような、そんな関係がいいじゃないですか。爽やかな風。そんなメルマガ。なんだか自分で自分のメルマガのハードルを上げているような気もしますが。

なんでメルマガなのかの話をしないといけませんね。このSNS時代にメルマガなんて時代遅れな感じがする人も多いかもしれません。僕もかつてはそう思っていました。ある時、仕事でメルマガに関わることになり、参考のために一つの有料メルマガに登録したんです。自費で。それが高城剛さんのメルマガだったわけです。メルマガ読者だけで武道館を埋めるほどの影響力を持っている、そんな人が発行するメルマガとはどんなものだろうかと。それまではかつて沢口エリカさんと結婚していて、ハイパーメディアクリエイターという怪しげな肩書きの人というイメージしかなかったのですが、世界を移動し続ける事による圧倒的な情報量とオリジナルな切り口に、仕事で関わったメルマガは終刊しましたが、高城さんのは変わらず購読を続けています。

SNSは不特定多数に語りかけるところがありますが、メルマガは特定の読者にのみ届けられます。SNSは全く読まれないことも前提にしますが、メルマガはある程度読まれることを前提とします。SNSは知らない人にも見られますが、メルマガが届くのは登録者のみです。SNSが放送なら、メルマガは手紙の感じがあります。それがなんだか友達からメールが来ているようで心地よいんです。おっと、僕はメルマガで友達100人できてしまうかもしれませんね。気兼ねが無くて気楽なら友達です。楽な友達なら別に多くてもいいです。友達とかカテゴリーにはめる必要のないくらい楽な関係がいいですね。お互いそういうのがいいと思います。どうせメールのつながりです。SNSはこちらから見に行かないといけませんが、メルマガは向こうから届く、というのもいいですね。ギフト感があります。最新情報を求めて、タイムラインに支配されることもありません。メルマガ限定の企画とかもできて、それもまた楽しい。

定期的に届くというのも生活習慣が安定して良いです。人間には野性のバイオリズムがあります。体内時計が狂うと体調を崩します。夜型は存在しません。朝のブルーな光を浴びると体内時計がリセットされ、その後15時間でメラトニンという睡眠ホルモンが出ます。月は29.5日で満ち欠けを行います。女性は生理と月との関係性を体で理解している人も多いことでしょう。大潮と小潮のあれほど大きな潮汐の変化を生み出す力が、七割以上が水分でできている人間に関わらないと考える方が不自然でしょう。満月が近づくにつれ、植物の土から出ている部分に水分と栄養が上昇してくるので、果物などはみずみずしくて美味しいです。ですから月は農作業にリズムをもたらします。習慣というのは一つのよりどころです。考えることが減るのはいいことです。なぜなら楽になるからです。

疲れるとイライラしやすくなります。高城さんのメルマガは毎週金曜日の4時20分に届きます。待ち遠しいです。でも待つだけです。早めに届くことはありません。1週間がリセットされます。そんなメルマガにしたいですね。420というのは大麻の隠語です。カリフォルニアのとある高校生が、4時20分に集まって大麻を吸引していたのがその由来と言われています。世界、特にアメリカにおける娯楽大麻解禁の経済効果はITバブルを超えるものとなっています。すると金曜日の4時20分というのは世界の最先端における、週末の幕開けとも言えるかもしれません。リラックスタイムの始まりです。一般社会で言うところの金曜の午後5時です。僕のメルマガは毎週金曜の午後5時にお送りすることにしようと思います。ある人にとっては仕事から解放される時間。ある人にとっては仕事ですね。忙しい時間帯です。そんな人には仕事を乗り切って、メルマガを読もうと思ってもらえるようなものにしたいですね。ある人にとっては週末はどこに出かけても混んでいるから、出かけるのは週明けにしようというようなタイミングです。そのエッジにメルマガをお送りすることで、リズムを作ってもらえるといいと思います。

人に会わないとなったらどうやってお金を稼ぐんだ、というのは一つの問題かと思います。そういうこともメルマガに書いていきたいですね。生活費の工面は大きく分けて二つの方法が考えられます。収入を増やすことと、支出を減らすことです。後者についてまず考えてみましょう。僕は一軒家に住んでいます。持ち家です。夢だかなんだか知りませんがマイホームです。タダでした。それでも税金はかかりますが、そんなに大きな問題ではありません。ちょっとボロすぎて手がかかりすぎますが、家賃に追われることはありません。100万くらいで買える家も田舎にはゴロゴロあります。

パートナーが野菜を作っています。オーガニックです。めちゃ美味しいです。美味しすぎて、たまに外食すると野菜のクオリティの低さに驚きます。養鶏も始めてます。そうすると生活費がほとんど掛からなくなってきます。そうなってくると仕事をあまりしなくても良いです。たまに知人の手伝いをしたりするだけで、結構十分です。いざとなったら季節労働でもいけばいいんです。農家の住み込みバイトにでもいけば、家賃も掛からず、食事も提供されて、遊ぶところもないからお金がすっかり丸々貯まります。

おっと、人にはあまり関わらない方がいいと言ってましたね。そこは1、2ヶ月の我慢と気合というのも一つの手です。そうこうしながら自分で稼ぐ手段を身につけていくのです。サバイバルです。僕もその最中です。遠隔でネットで仕事をしたり、Kindleで出版したりしてます。僕の場合は作物を売ることも考えられます。しかし自給レベルで野菜を育てていると、スーパーで売っているような値段じゃ売りたくありません。そう考えると時給1000円とかってすごいなと思います。でもその場合売り渡してるものが多いです。あなたの時間と才能を1000円で売るんです。しかもその仕事は胸を張れるものとは限りません。一方で、自分で作った価値が1000円以下だったとしても、それによって得られた学び、能力は尊いものです。向上もあります。アルバイトでも学ぶことがないわけではありません。学びはどこにでもありましょう。しかし自らが納得できる方法でお金が稼げるとしたら最高ですね。いつかは1000円を超えてやりましょう。Kindleの本が売れるとめちゃ嬉しいです。300円で売ってますから微々たるものです。しかしKindleは利益が七割に設定できます。可能性があります。あなたも本を出版してみませんか。

そんな感じで、経済が動き出すようなメルマガにしたいなと考えています。経済を超えて国にしたいくらいです。むしろ国は経済です。僕は国を作るのが一つの目標だったりします。国家なんてものは概念に過ぎない幻想なわけですから、ポンと作ってもいいはずです。国連に認可されないといけないわけでもありません。ローカルなコミュニティーとかコミューンとか村づくりとかじゃなくて、国がいいんです。というのは前者は繋がりを求めてくる感じがあるじゃないですか。そういう組織にいたことがありますが、疲れます。僕にとっては。それこそギリシャのアテナイみたいに初期の国家的なものは村に近かったのかもしれませんが、現在の国民と政治家みたいな、顔の見えないくらいの距離感が楽だなと思うんです。楽なのが大事です。小さくて、小さ過ぎて、ある必要もないような政府。的な国。という共同体な距離感。自由と呼んでも良いです。自由な精神と自由な精神による自由な営み。そこで生まれる経済。経済はサバイバルです。このメルマガのテーマはサバイバルです。別に僕が国王になるとかではありません。メールを送る人ではあります。存在しない国王のメッセンジャーみたいな感じかもしれません。イエスとかムハンマドもメッセンジャーか。でも僕は教祖にはなりません。寺の住職みたいな感じです。そうです、ここはお寺です。そんな国です。

なんとまとまりのない序文でしょうか。でも人たるものそんなにまとまってないんです。量子レベルでは揺らいでいます。固定しないほうがいいのです。固定されるのは苦しいんです。男なんだから、女なんだから。勝手に決めないでもらいたいものです。メルマガがどんな文章になるのかは全く決めてません。メルマガを口実にいろんな挑戦をしようとは思っています。そうです、僕の方があなたに助けられるのです。そのためのメルマガなのかもしれません。テーマはサバイバルです。死にかけてもしぶとく生き残るためのサバイバルなメルマガです。衣食住です。健康第一です。本気で生きてやる、ということです。タイトルはサバイブマガジンに決めました。今。購読する人はどれだけいるのでしょうか。タダですから試しに購読してみませんか。タダより高いものはないなんて嘘です。価格が0円だからと見返りを期待するのはタダではありません。僕は村社会みたいな繋がりを要求しませんから心配いりません。まあメルマガ内で何か販売することはあるかもしれませんが、別に買わなくていいです。まあ広告くらいさせてください。僕もサバイブしなければなりませんから。さて、タダはタダです。あげて終わり。あげたら僕は忘れます。あなたも貰ったことを忘れてください。それに僕の方があなたに助けられるのですから心配入りません。たくさん学びがあるでしょう。それに誰かに何かを与えることができるのは幸せなことですから。あげて幸せ、貰って幸せ。あるのは幸せだけ。そんなのが良いじゃないですか。

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