スマートヒューマン

ミニマリストを超えてマキシマムに多機能に拡張する

全ては過ぎ去る世の中で

ミニマリストという生き方が一定、知られるような世の中になっています。所有する物を限りなくそぎ落として身軽でコンパクトなライフスタイルを選んだ人のことをいうのでしょうか。必要最小限の物を所有し、ついには家も手放して宿を転々として、軽快に各地を飛び回ってノマド=遊牧民な暮らしをしている人もいます。

あらゆる「物」は宇宙の資源を食いつぶして供給されることを避けられません。エネルギーは保存されています。すなわちそれらの背後にはいつもある種の悲しみが潜んでいることになります。ですからそれらの所有から離れたところに生きる術を見出すことは素晴らしいことです。その上、それらの物はいつかは失われることも決定しています。この世に壊れないものはありません。川の流れや、山の稜線のように永遠にすら思えるものも、長い年月の前には同じであり続けることはできません。同じでないだけで、エネルギーは保存されていますが。

ただでさえ現代社会は変化の早い時代です。次々と新しいテクノロジーが生まれ、すでにスマートフォン登場前夜は思い出そうにも思い出せない夢のようです。それが2020年現在ほんの10年前になります。次の10年はどう転ぶのでしょうか。今の子供たちが夢に見た職業は成人したときには存在しないかもと言われます。Youtuberという職業もまさにここ10年に生まれました。そんな不透明さの中で、人々は当たり前に100歳まで生きることを余儀なくされています。その上、いつ巨大な災害や未知の感染症が襲ってくるとも限らない混迷の時代にも足を踏み入れました。物だけでなく、人の命も儚いものです。一寸先から未来の展望まで、闇です。不確かです。

不確かな情報を少しでも確かに

闇の中から突如現れる障害物をひらりとかわすには、身軽でなくてはなりません。何が起こるか分からなくても、少なくとも何かが起こるということだけは頭の片隅に置いておく必要があります。まさに狩猟採集時代のようです。いつ現れるか分からない夕食の獲物や、猛獣の突然の襲来などに対応できるためには、余計なお荷物を持っていては生命に関わります。闘争か逃走か。いつでも走りだせる必要があるのです。遊牧民(ノマド)も環境に合わせて移動できる柔軟さがありますが、家畜がいるが故の動きの遅さがあるでしょう。

狩猟採集時代の不確かさは情報を得ることの難しさによったのでしょうが、現代社会のそれは情報が多すぎて選びきれないことと、必要な情報がまだ生まれてないことによって起きているように思います。いずれにせよ情報の不足があるということ、必要な情報が手元にあるとは限らないということです。中世の頃にはあったであろう政治や思想の一定の確かさも存在しません。身分制度の枠組みもかつてのように強固ではありません。私たちは再び「分からない」時代に突入したのです。確かなのは不確かなことくらいです。

ですから物を持つことへの根本的な概念を改める必要があるのでしょう。変化に対応するためには身軽でなくてはなりませんから。それは不確かな情報を少しでも確かにする行為とも言えるかもしれません。わずかなヒントを得るために知覚を鋭敏にしておくには、物理的な煩わしさをできるだけ排除する必要があるのです。それが走り出す前の初速になります。狩猟採集民の教えの一つあるかと思います。ですから、ミニマリストが生まれているのは時代の要請と言えます。

ミニマリズムはマキシマリズムか

しかし、昨今叫ばれているミニマリズムを成立させるためには、周囲の環境の助けが不可欠です。例えばキッチン用品や食材を買い込まなければ、台所には収納も冷蔵庫もいりませんから家財はシンプルでミニマルになるでしょう。多くの場合それは飲食店に日々の食事の多くを頼ることで成り立つと考えていいと思います。個人としてみれば当然ミニマルではあります。個人と飲食店の双方が鍋を持つよりは、飲食店だけが鍋を持っている方が全体としてもミニマルではあることは確かです。それに違いありません。しかし、ここで私が主張したいのは、そのミニマルな暮らしは、巨大でマキシマムなシステムがあって成り立っているのだということです。ミニマリストはマキシマリストなのでしょうか。

もちろん公共交通網のようなマキシマムなシステムが構築されているおかげで、例えば自家用車のような個人消費を大幅に抑えることができるわけですから、それは社会の物質的なミニマルさにも大きく貢献しています。

しかし持っているものが少ないだけでミニマリストと言えるのでしょうか。王様のようにお抱えの人たちが身の回りのことを全てやってくれるのなら、一切を所有しているようで、何一つ持っていないような感じがあります。奴隷のように、所有を許されていない身分の人や、囚人のように所有物から隔離されてしまう人もいます。所有が少ないだけで良いなら彼らはミニマリストに違いないのでしょうが、そう呼ぶにはなんだか違和感がありませんか。

足りてることより、足りなさ

所有物が少ないだけがミニマリストではないとしたら、一体彼らは何者なのでしょうか。少なくともキングのように物の管理を人に任せる者でもなければ、自由意思によらず物を奪われた者ではないようです。自らのチョイスにおいて物への執着から離れていることが重要なのでしょう。ということはバズワードとしてのミニマリストという言葉からはちょっと距離を置いた方が良さそうです。トレンドによって操作された人は本質的にはミニマリストとは呼べないかも知れません。なぜなら自由意志と言っていいか怪しいところがあります。Googleの意思によって物を剥奪されたようなものです。するとミニマリストという言葉を使った時点で確信を踏み外すような気がします。なので自信を持ってこう言いましょう。ミニマリストはミニマリストではないと。しかし便宜上ミニマリストという言葉をこの後も使うことはお許しください。言葉とはそんな曖昧模糊なものです。

そう言えばこの単語が耳に入るようになる前に、私は東京にある実家の自室の家具と布団をすべて処分したことがあるのを思い出しました。今もそこはすっからかんです。その部屋に住んでいる時は、登山用のマットと寝袋で寝て、近所のスーパーでもらってきた段ボール箱にMacBookをのせ、本は床の壁際に並べていました。本はたくさん持っているわけではなかったですが、少し量が多くなると古本屋に持って行ってました。少しづつ集めたジャック・ケルアックの洋書も最終的には売りました。せっかくだからと渋谷にあるビート文学の蔵書が多く、ゲイリー・スナイダーなんかもポエトリーリーディングをしたことのあるとある本屋に売りに行きました。しかしほとんどブックオフに売るのと同じような、どんな本でも買取価格は最初から決まっているような値しかつけてくれなかったので、所有の儚さをまた一つ知ったような気がしました。

話を戻しましょう。ただ所有が少なく、貴族のごとく周囲の環境におんぶにだっこな状態なら、別に何も特別なことはありません。ただし、その生活環境のマキシマムさを最大限かつ効果的に利用できるというのなら話は少し変わって来るかもしれません。自分で掴み取るんだという部分も忘れてはいけないでしょう。結局はマキシマリストなのです。インフラとして整備されているならば、同じ機能を持つものをわざわざ自分で所有しなくても必要十分な暮らしは保証されます。必要十分とはいい言葉ですね。この節度を理解していることもミニマリストの一つの条件に思えます。

必要十分という言葉には、「これだけは欲しい」というよりは、「これはなくてもまあいいや」という感覚があるような気がします。この点が重要だと思うのは、その足りない部分、空白こそが、ミニマリストを本質的にミニマルにする要素だと思うからです。空白とは自由です。真空です。可能性の流れこむ余地であり、挑戦へ駆り立てる余白でもあります。ミニマリストの本質たる多機能さを呼び込みます。スマートフォンみたいな人です。この空白という言葉はこの後も繰り返し使っていきます。あらゆる問題解決から、幸福の追求まで、この空白にかかっているともいえるからです。何もないのに、何でもあるのが空白です。空白はどこまも広がります。無辺です。やはりマキシマムなのです。そのとき、ウォルト・ウィットマンの声が聞こえてきます。

おれは巨大だ、おれは多様性をかかえている
『おれにはアメリカの歌声が聞こえる ー 草の葉 by ウォルト・ウィットマン』

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