tzubasashimizu

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旅をふりかえる旅

四国八十八ヶ所・野宿遍路の記憶


はじめに

野宿遍路の経験をいつか自分なりに再評価したいと思い続けていたらあっという間に六年も経ってしまった。二〇一三年の真夏に野宿で歩いた四国遍路。リアルタイムでは咀嚼しきれないほど濃密な三十五日間を六年越しに振り返る。

すでにスマホ時代に入っていて、簡単に地図や情報にアクセスできるようになり旅そのものの定義が変わり始めていた当時、僕は携帯回線を解約して電池も切れたiPhoneと共にオフラインで四国を歩いた。そこでの経験は全て日々したためていたわずかながらの日記を除いては、全て僕の目に焼きつき、耳に残り、脳裏を漂っている。それらを振り返ることで新たな思考に出会うという心象の旅路の記録が本書である。

過去を振り返ってはいるが、目線は未来にある。これからを生きるための思考の整理であると同時に創造だ。六年も経つとお遍路の鮮明さが失われているのではと思ったらそれは間違いで、当時の体験は現在の僕を形作っているし、むしろそれ以降の体験から得た知見によってついぞ言葉にできるような事も多いように感じている。

本書は、お遍路のことはもちろん、歩くこと、宗教、文化、自然、環境、地方創生など、この旅の経験があったからこそ得られた知見を自由に織り込んで綴った脱線型エッセイである。お遍路の話題から逸れ過ぎている章も多いが、お遍路というのは四国を歩いているようで、実は歩くものそれぞれの内面世界を歩いているのだと思う。

一日目『みかんと仏と』

遍路道が集落の生活道から山道へと変わろうとするところで一本のみかんの木に出くわした。僕はおもむろに一個捥ぎ取って頬張った。強めの酸味が歩き疲れた体によく染みた。そのまま五〇メートルほど食べ歩いたところで思い出したように振り返り、僕はそのみかんの木に手を合わせた。

少し行くと木の枝に俳句を書いた短冊が一句ぶら下がっていた。生きとし生けるもの、草木、万物が仏であるとそれは語っていた。正確な句は覚えていない。日記にも書いていない。しかしカメラで撮るでもない、メモを取るでもないからこその活き活きとした心の動きは今でも覚えている。そうか、あのみかんも仏だったのだ。こうして僕はこの旅でたくさんの仏に出会うことになる。僕の心の内にも外にも。


二〇一三年七月十二日。僕を乗せた高速バスは鳴門海峡大橋を渡って徳島に上陸した。前日の夜に新宿を出発した夜行バスが大阪に到着したのは早朝のこと。バスを乗り換えて目的の鳴門についたのは十時過ぎだったろうか。初めての四国だ。その年の六月頭に帰国するまでインドで半年を過ごしたとはいえ、当時まだ旅慣れていなかった僕は不安と期待を胸に一番目のお寺、霊山寺を目指して歩き始めた。

東京で生まれ育ち母方の田舎の福島に毎年訪れる以外は旅行なんてものはろくにしたことがなかったから、この旅が僕にとって初めての国内旅行のような気がしていた。八百屋の店先に並ぶ鳴門金時の鮮やかな紫が食欲をそそった。そういえば朝から何も食べていなかった。

一番霊場の霊山寺に到着した頃には十一時を回っていた。四国遍路を歩く恐らくほとんどの人が一番から順番に始める。別にどこから始めてもいいし、逆回りする「逆打ち」という文化もある。でもやっぱり一番から始めたくなるものなのだろう。なんと僕たちは頭が凝り固まっているのだろうか。もちろん鳴門は四国の玄関口として利便性が良いということもある。

だからこのお寺には遍路をするのに最低限必要なものが全て揃っている。僕はそこで白装束一着、金剛杖、お経、納経帳、納め札、笠、ろうそく、そして線香を購入した。しめて一万円ほど。地図はすでに東京の八重洲ブックセンターで購入していた。ここでも売っていたが、お陰でバス停からここまでの道のりを参照できたのだから、先に買い求めておいてよかった。

僕は当時携帯回線を解約したiPhoneを持っているのみで、ありがたいことにwifiがなければGoogleマップは使えなかった。いやwifiがあっても使うつもりはなかった。旅は知らないことが多い方が楽しいし、頭の中が情報で溢れていると思考が自由に動ける範囲が狭まるように感じる。キャンバスは空白だから新しい絵で埋められるのだ。

折角見知らぬ土地にいるのだし、しかも四国一周一一〇〇キロメートルを歩こうというのだから、そこから得られる刺激を真正面から受け止めたかった。そうでないと生まれ得ない思考というものがあるのだと思う。僕にとっての遍路は大地を歩くことはもとより、僕の心象の世界を歩く心の旅でもあるのだ。ストリートビューで四国を一周してみるのもそれはそれで楽しいかもしれないが、全く別の体験だ。僕はこの遍路をオフラインでいられて本当によかったと思っている。

本堂に向かいロウソクとお線香をお供えし、世界平和(!)を祈願した札を収め、般若心経と幾つかの偈を唱えた。これをこの後八十七回繰り返すのだ。最初だから間違うし、ぎこちない。しかし腹の底から声を出すのほ本当に気持ちが良い。幸せホルモンとも呼ばれるセロトニンはその前駆体が腸内で生成されるのだが、腹式呼吸やジョギングなどのリズム運動はその活性化に寄与する。腹から声を出してお経を唱えるのはその両方を満たすとも言えるだろうか。読経そのものがただ声を出すよりもかなりリズミカルだ。ダンスミュージックさながらの没入感があると言っても言い過ぎではない。

初日であるこの日はその後二番霊場の極楽寺、三番の金泉寺、四番の大日寺、五番の地蔵寺を参詣し、合計五回この快感を味わった。普通にお寺に観光に行ったとしたら恥ずかしくて出来ないが、四国遍路の霊場であることと白装束を着ていることに守られて、腹から太い声を出してお経を唱えることができた。お遍路ツアーのおじさんおばちゃん集団たちは皆で大きな声で読経をするけれど、そうでないお遍路は控えめな声で般若心経を唱えるくらいが実際ではある。

どうせやるならとことんまで遍路を味わい尽くしてやろうじゃないかという想いがあった。読経があまりにも清々しいので、お参りのない日はなんとなく寂しさを感じるくらいになったほどだ。そしていつの頃からか、完全に暗記してしまい経典を見ずとも諳んじられるようになってしまった。やはり反復練習には確実な効果があるようだ。

お参りの度にお経の言葉に再会できるのも幸せなことだ。四国を一周も歩き続ければ当然様々な困難に遭遇する。足が思うように動かなくなるかもしれないし、全ての出会いが心地よいものであるはずがない。自分の不甲斐なさにイライラする事もあるだろう。事実そうだった。そんな時でも少なくとも二日に一回はお経の言葉に出会うことで、意識をチューニングすることができた。とある友人のパーティに出席した際に食前に必ず「食事の偈」を唱えていたことを思い出す。

目の前に並んだ食べ物はどこから来て、誰が生産して、誰が調理したのか。そして一方で世界には十分な食事を取れない人たちが沢山いる現実を自らにリマインドし、感謝の心で食事をいただく。たったこれだけのことで食べる時の意識はまるで違う。貪ることがなくなるだけでなく、食材一つ一つの味を噛み締め、食事そのものを楽しむことができる。普段なかなかゆっくり食べられない僕がスローダウンすることができる。

ある禅の僧侶が禅の極意とは何かと聞かれて「お腹が空いたら食べて、眠たくなったら寝る」というようなことを答えている。禅とはそんなものなのかと思ったら早計だ。この飽食の時代に欲に感ける事もなく必要十分の食事で済ませている人がどれくらいいるだろうか。食べ過ぎていないか。ジャンクフードばかりチョイスしていないか。お腹が空いていないのに、お菓子を食べていないか。逆にダイエットと称して必要以上に節食していないか。その観点でいうと、正しく食事をとれている人はいったいどれだけいるのだろうか。そもそも正しい食事とはなんだろう。

なるほど食事というのは難しいのである。その一つの解決策として食前の祈りがある。僕もそのパーティ以来、食前には頭の中で欠かさず唱える文言がある。四国遍路の途上で合計八十八回唱えることになるお参りの際の読経は、この旅路での意識を常にフレッシュにする助けとなっていたことは間違いない。そうでなければなんとなくやり過ごしてしまう日常の機微に感謝できる日々というのはなんと尊いものだっただろうか。

四番霊場の大日寺に到着したときに一台の車が寺の前の駐車場に停まった。四、五十代と思われるご夫婦が足早に車から飛び出し、旦那さんは本堂に駆け込み早口で般若心経を唱えていたようである。その間に奥さんの方は社務所に行き納経を済ませていた。そしてあっという間に車に乗り込み次のお寺へ走り出した。各霊場の社務所が「営業」しているのは午後五時までだ。タイムリミットまでに出来るだけ先に進みたかったのだろう。

なるほど四国遍路がスタンプラリーとも揶揄される所以である。お遍路では八十八のお寺をお参りして、それぞれのお寺で納経をする。お経を納めるということだ。その印として、納経帳に御朱印をもらう。お寺のご本尊の名号をかなりカッコ良い達筆で記してくれるのだから確かに達成感があるし、コレクター心をくすぐるのも分かる。

白装束の背面や、掛軸なんかに八十八の納経をコンプリートする事もできる。現代で言うところのスタンプラリーと変わらず、その土地を訪ねることよりも納経帳をコンプリートすること自体に目的が移ってしまう人も残念ながらいるように見受けられる。そのコンプした掛け軸がヤフオクで売られていたりする。それは買う人がいることを意味してもいる。

そんな光景にいちいちイライラしてしまう自分がいたものだが、なんと余計なお世話なのだろうと今では思う。これが彼らのお遍路であり、心の旅なんだと思う。そしてその行為から次への糧を学び取って行くことは誰もが逃れられないことであり、それが人生というものかもしれない。

他人のことなんていいからお前の人生を生きればいいじゃないかと。僕は僕でそんな彼らから得られる教訓も多い。だって普段の暮らしでは彼らのスタンプラリー遍路のごとく、日常に追われてこなすように生きている気がすることも多い。とても人のことをとやかく言える立場じゃない。

お遍路はかくあるべきだ、のような観念はなんと独善的であろうか。こんな迷いも含めたそれぞれの遍路模様が道々に交差しているのだからなんとも面白い。その全てが学びであり、僕にとっての仏として立ち現れてくるのだ。

二日目『お接待と善根宿』

二日目の朝をとある善根宿で迎えた。野宿遍路と言っているのに初日から宿に泊まるなんて詐欺ではないか。そもそもゼンコンヤドとは一体なんだ。

善根宿とはお遍路が一夜を過ごすために無料ないしはごく格安で解放されている宿である。ちなみにこの度の善根宿の宿泊料金は三百円だ。常駐の管理人がいないことも多く、支払いは利用者の善意に任されている。トイレはあるが、風呂やシャワーは基本的にない。お世辞にも綺麗とは言えない善根宿もあるが、個人的にはその方がかえって落ち着いたりもした。そしてたまにすごく至れり尽くせりな善根宿もあって驚く。その多様性が楽しい。旅館やホテルの設備とは比較できるものではないが、それでも立派な建物である。一体野宿遍路とは口だけだったのか。

遍路をするにあたって僕の中で決めていたことが一つあって、それは「お接待」を断らないことだった。四国遍路を歩くと道ゆく人から様々なお接待をいただく。飲み物、食べ物、時にはお金をもらう事もある。遍路のための休憩所を提供している人もいるし、車に乗せてくれる人もいる。お接待は出会いとコミュニケーションと感謝の交わるところだ。仮に車で全行程を乗せて行ってくれるというお接待をオファーされれば車に乗り込んだだろう。まあわざわざ歩いて遍路する人にそんなオファーをする人はいないだろうけど。僕にとって善根宿も一つのお接待であった。だから区切りの良いところに善根宿やその他遍路のために解放された建物があったら可能な限り泊まることにしていた。

そう言えばお接待をしてくれた人に「他の地域ではこんな文化はありませんよ」と言ったらあまりに驚いていたことがあった。そのくらいお接待をする人にとっては当たり前の行為として染み付いている。かつての日本ではお接待は当たり前の風景だったのかもしれない。四国遍路以外にもお伊勢参りや善光寺参りなど、旅と言えば歩くのが当たり前だった時代、疲れた表情を浮かべて歩いている旅人を見かけたら、確かにお茶の一杯でも飲んでもらいたいと思うのが人情なのだろう。頂いたお接待は全て記録しているが、お接待がない日なんて何日かしかなかった。

考えてみると僕の現在の山里での暮らしでも、野菜を筆頭に食べ物はしょっちゅう貰うし、この章を書いている「今日」も薪にするための大量の剪定枝をもらったばかりだ。家を解体するというとタンスや建具なんかまで貰える。物はお金との交換によって手に入れるものだという観念がいかに都会的で偏ったものであるかが、このような生活をしてよくわかる。

田舎には村落共同体としての思いやりと助け合いに基づいたギフト経済が当たり前にあって、GDPに反映されることのない血の通ったやりとりが生産されている。そんなコミュニティ内総生産を知らずして本当の豊かさは語れない。それが集落か、信仰かの違いはあっても、共通の想いを育んでいることがお接待やお裾分けなどのギフト経済の根底にあるように思う。都会のように人口は多くてもその親密さに乏しい透明人間たちの世界とは対照的である。それだけに都会に暮らす人にほど遍路を経験してもらいたい。

四国遍路の場合は、歩きたくても歩けない人たちが、お接待を通じて遍路をしている人にその想いを託しているという側面もある。お接待をいただいたら、こちらは当然「ありがとうございます」と返すのだが、むしろ頂いたこちらが感謝されるケースも多い。「私も連れてってくれな」と。こうしてたくさんの人に助けられ、その想いを抱えて歩いて行くのだ。

この善根宿に到着した時は僕一人だったが、しばらくしたらもう一人やってきた。そしてコンビニのおにぎりセットを頂いた。このように遍路が遍路にお接待されることもある。成り行きは覚えていないが、僕の食事があまりに貧相だったからに違いない。この旅の朝昼晩の食事も全て記録しているのだが、初日の夕食はバナナ、みかん、ナツメ、そして干柿であった。自炊装備を携帯しているので、遍路道近くにスーパーがあったら食材を色々と買い出しするつもりであったのだが。

同宿の男性はビールに焼酎でどんどん酔っ払って饒舌になっていった。彼にとって二度目の遍路だそうだ。東北の復興ボランティアに参加した際に老子やニーチェなどについて知る機会があり、土建の仕事仲間との話は合わなくなるし、仕事は嫌になるしで二度目の遍路に駆け込んだらしい。

「道徳」について知ったって目の前の仕事という現実との矛盾に引き裂かれるのがオチなのだろうか。現実とは民意をも蹂躙し、生態系豊かな辺野古の海を土砂で埋めてしまうもので良いのだろうか。まともな人間ほど精神病棟にいるなんてことを言った人がいたっけ。彼の酔いは更に回り、その酔いに任せたグチは次第にいびきに変わった。僕はそのためかよく寝付けなかった。

二日目は六番霊場の安楽寺、七番の十楽寺、八番の熊谷寺、九番の法輪寺、十番の切幡寺、十一番の藤井寺と周り、あっという間に十を超えた。遍路を始めたばかりの者がまずは場数を踏んで慣れるためなのか、徳島県では距離の割に霊場の数が多い。約二一九・九キロメートルの道のりに二十三の霊場がある。二県目の高知が約三八四・六キロメートルと最長なのに対して霊場の数が十六しかないことを考えると対照的である。

そしてここから剣山の麓の町に向けて徐々に高度を上げていくことになる。まさに第一の難所だ。まるでリアルなロールプレイングゲームや人生ゲームのようで、かなり計算されて組み立てられた巡礼路であることがわかる。徳島県は「発心の道場」とも言われるが、発心とは出家して仏教の世界に入ることを言う。決意といってもいいだろうか。ブッダは二十九歳の時に王子の地位を捨てて旅に出た。遍路道はブッダの生涯とも重なっている。そして高知県は「修行の道場」と呼ばれるが、先述した通り「まさに」である。

山道の途中にある美しい山小屋の善根宿を二日目の寝床とすることにした。外には山水が引いてあったので、体を拭き、洗濯もできた。

テントも持ってきているし野宿をしたい思いもあるのだが、ちょうど一日の終わりにタイミングよく野宿に適しているところに到着するわけではない。やはり歩き遍路をしている以上は、納経のできる午後五時まではしっかり歩きたいと言う想いもあったから、仮に道中にいい場所があったとしても、タイミングが合うとは限らない。二日続けての善根宿であるが、別に善根宿が遍路道のいたるところにあるわけでもない。ではどうやってこの宿を見つけたのか。

実は善根宿や野宿場所をまとめたリストが存在して、インターネット上にも掲載されている。兄が僕より先に遍路を経験していたので、そのようなリストがどこかで手に入ることだけは知っていた。そして僕はそれを「どこか」で手に入れたかった。ネットからコピーするでなく、兄からそのリストをもらうでもなく。Google検索ではなく、人と人との繋がりの中でたどり着きたかったのだ。そのリアルな交流こそが四国遍路に僕が期待していたものであったし、事実期待以上の交流をさせてもらった。

結果としてはいとも簡単に、しかも初日にそのリストを手に入れることができ、四国を一周する間に合計三つのリストを入手することとなった。もし仮に片足をインターネットに突っ込みながら歩いていたら見つからなかったかも知れない。一日中歩き通した上で寝場所の目処がつかないことほど不安なことはない。このリストのおかげで進行具合に合わせて事前にどこに泊まるべきかの目星をつけることが可能となった。

遍路向けの宿泊施設としては善根宿以外にも霊場であるお寺が通夜堂を無料解放しているところもある。僕も一度は霊場の通夜堂に泊まってみたかったが、一日の行程の終わりがなかなか合わず、かと言って早い時間に歩くのをやめるつもりもなかったので泊まれずじまいだった。他には宿泊しても良いお堂があったりする。

あとは各地に東屋があったり、リストには載っていなくても遍路地図に記載された公園をチェックしておくとテントを張るにちょうど良い場所かも知れない。もちろん道ゆく人に野宿可能な場所を問うてみるのも良いだろう。遍路道の近くに暮らす人には遍路が野宿をすることに理解がある人も多い。それだけにどこでも野宿していいと言うわけではないのだ。明らかに人の迷惑になるようなところではいけない。

遍路のことを怖がっている人だっているからである。

三日目『托鉢と自尊心』

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